ブログ」カテゴリーアーカイブ

電子出版業界

  • 【電子書籍ウォーズ(上)】グーグルとアマゾンの攻勢(産経新聞)(記事削除)

そろそろ電子書籍業界の収益が、出版業界からしてみても無視できない領域に到達してきている。
日本では Sony をはじめとするグループが事業会社を立ち上げて独自規格を打ち出そうと躍起になっているが、やはり Google や Apple などの開発速度には応えられていない。
これはおそらく事業会社が出資各社の意向を聴きながら進めているためで、これまたなんとも日本的な文化が足枷になっているのではないかと思われる。
まぁ、こんなことしてればアメリカの開発力には絶対に勝てないわな。

電子出版業界の未来はそんなに開けていないと思っています。まぁ時代の流れに沿った既存の利権の食い合いのような気が。
そもそも出版物というのは、著作権をはじめとする権利が、普通の物品とはその敷居が大きく異なっている。無論、通常の品々にもこのような権利はあるのだが、出版物は比較的容易に複製ができてしまうため、その点において特段の配慮が必要で、その部分の開発においては技術力をはじめとする能力が必要。
しかも、そもそも作者・出版・印刷・流通などからして、非常に保守的な意識が高い面々が、権利・利権を持っており、そこから版権を確保できなければ意味がない。
そして今はすでに、どこがビジネスプラットホームにおいて天下を取るかの、戦国状態。
ちなみに、ビジネスプラットホームが奪取できれば、版元との利益配分が二束三文であっても、莫大な収益を上げることができるというのは、お分かりかと思う。

ちなみに電子書籍というのは、技術面において真新しい部分がほとんどないのも事実。確かにハードの進化に合わせての機能追加とセキュリティ面での進化はあるんだけれど、「見せるための技術」においては、それほどの進化はない。
だって、所詮媒体が紙から電子媒体に移っただけだし。

あとこれは持論なのだが、そもそもコンテンツ産業というのは、一種のマネーゲームと私は思っている。細かい話は抜きにするが、乱暴に言ってしまうと、コンテンツ産業で生まれた利益は、所詮、国力の維持には寄与しない。一次産業で得られる原材料も二次産業で得られる物としての生産物も得られない。コンテンツ産業に従事している人、特に営んでいる人の殆どは、自身が好きでやっているのであり、そこに賛同者が集まることで売買が成立し、経済が成り立っている。そう言った意味では、一次・二次産業に比べ国力の増強という面において社会に寄与しているとは言えない。
確かにコンテンツ産業は、人間社会において充実な生活を送るために「ある程度」は必要だと思う。でも限度を越えてしまうと、それは結局、人間本来の知的ポテンシャルを無駄な方向に消費させている、要するに能力の無駄遣いに繋がっていると、最近常々思う。
まぁ、もっと乱暴に言ってしまうと、地球規模の経済破綻が起きたとき、電子書籍が読めるのよりは、畑でできた食料を持っていたほうがよいということ。そう言った点で、私のコンテンツ産業としての魅力は、最近ちょっと低い。

まぁ人の人生なんて 80 年ぐらいしかないのだから、今の私が何を言っても仕方ないのですがー。

続きを読む

大画面テレビとDVD・ビデオ

DVDの画像

実は画質がピンキリなのがこれ。
DVD でも自分で録画したものとビデオレンタルや販売品で画質は異なります。
しかもビデオレンタル・販売品の場合、更に作品によって異なります。

まず、自分で録画したものの場合。録画モードによって画質は左右されます。まぁ標準画質であれば、問題なく観ることができますが。
長時間モードにすればそれだけ、画質はどんどん落ちます。比較的わかりやすいかと。
ちなみに 40 インチ以上の大型テレビだと、標準録りでも結構荒れた感じになります。できれば高画質モード録画で。

それに比べて判りにくいのが、ビデオレンタル・販売品。
これは専ら作品のリリース形態、DVD が製造された時期、販売形態によってまちまち。これは1つずつ説明しましょう。

まずは作品のリリース形態。つまり「映画」か「テレビ」かという事。

これは発売された時期も大いに影響するのだが、映画の場合、当然ながら普通の場合は、原版がフィルムとなります。
そのためDVD用のデジタルデータを制作する場合においても、フィルムに記録されている内容がそのまま収録されることになります。その結果「映画のような」画質に近い形となります。
ただし、このあたりは、DVD のメーカーの編集能力などにも大きく左右されるので、最早「当たるも八卦 当たらぬも八卦」状態。
でも廉価版 DVD でなければ、フィルムの画質が DVD で可能な最大限の画質で維持されるのが一般的。逆にそうなっていないと、そのメーカーは相当ヒンシュクを買います。

それに比べてテレビ作品の場合は総じて厳しい。
もともと記録されている媒体そのものが、業務用とはいえ VTR。テープの保存状態や元来の品質にもよるが、媒体そのものが劣化する。実はその劣化が思ったよりも厳しいようで、年代によらず、色味の変化やノイズがかなり発生している模様。
2000 年台前半のテレビドラマでさえ、結構粗い画質のものが、たまに放映されてたり。
しかもデータそのものが地上アナログ放送時代に、その解像度を基準に作成されているはず。
業務用 VTR は民生機よりも何年か早くデジタル化されているとはいうものの、1990 年に入ってから。
多少は解像度もあるのでしょうが、地上アナログの解像度を現在のハイビジョンの解像度のテレビで観れば、その粗さを隠せません。粗さは一目瞭然だったりします。

あとアニメ作品の場合。
アニメーションは、もともと色味と輪郭がはっきりしているために、地上波向けの作品がハイビジョンで流されると、スゴいことになること多し。低画質のデータを高画質に無理矢理広げて再生(アップコンバート)するのは、実はデジタルにおける技術的な「壁」だったりして、結構厳しい。これは DVD でも同じく厳しかったりします。
また通常の番組と同じで、アニメも納品データそのものがそのサイズでしか残ってません。確かにドラマと違って「元のデータが残っていれば、今の解像度のものが再制作できるのでは」という話もありますが、まず元のデータが残っていることが、「稀れ」なんだそうです。確かに、制作会社そのものが倒産・廃業しているのは最早日常茶飯事。

そして、これとは別に、販売形態によっても画質は左右される事にご注意。
コンビニ等で扱われている DVD の場合、いわゆる廉価版クラス。これは版元からのフィルムを自動補正でそのまま DVD に落とし込んでいるため。
それに比べて普通の金額で販売されている物は、DVD 用のデータを制作する際、通常はカット毎に適宜補正を入れているので、コンビニ DVD よりも品質は高いことが多い。あとボーナストラックなどもこちらのほうが多かったり。

コンビニDVD<<レンタルDVD<<レンタルBlu-ray<<<<製品DVD<<製品Blu-ray

という訳で「視るに耐えない」というわけではありませんが、結構色々と気になる場面が出てきます。
まぁテレビや DVD デッキによっては、補正機能等によって滑らかに表示される期待もありますが、デジタルテレビはもともと輪郭はくっきりと表示されるほうなので、もともと解像度の低いアナログ放送の番組や輪郭のボヤつくのが元々普通なフィルム(8mm とか)の作品の場合、画質に関しては諦めるほかないと思います。

VHS3倍速

こちらはもぅ「視るに耐えない」レベル。輪郭補正とか以前に、そもそも録画データそのものの品質が低く過ぎて、昨今のデジタル放送対応のテレビの高画質では、どうしようもありません。輪郭補正もかなり厳しい。
なので、作品によって、DVD 標準相当で VHS → DVD に焼き直し、もしくは、VHS 標準相当でデータを変換して随時保存しています。
まぁ録画用 DVD も VHS テープも、我が家の場合は娯楽用というよりは資料用という性質が強いので、正直なところ、そんなに画質にはこだわってません。
あと我が家のリビングテレビ(42 型)とは別に、20 インチ前半のテレビを購入する予定で、古い作品はそちらで視聴すればよいかと。最悪「パソコンで見られればいいかな」レベル。

まぁ、この業界には「ゴロ」みたいな人が結構いて、これが結構迷惑してる時がある。

たまにサークルやらクリエータから相談される事がある。

まぁ、縁切らせたり、場合によっては興信所とか弁護士とか、結構大変だったりする。
でも、こんな私を信頼して相談しに来る友人知人達を大切にしたいとも思っているし、この業界の「膿」とか「負の部分」と思って、対応したりする。
でも、精神的な労力もかかるのは事実。

まぁ、口約束上の行為とは言え、約束不履行や違反行為に対して、クライアントが我慢ならない状況に至っている以上、そして困っているところを相談されている以上、第三者と言えども、断固たる対応にて助けるざるを得ない。

まぁ普通に仕事をしていて、友人知人の関係から、企画や営業を手伝っている人は多いと思うし、そういう人はまぁ、信頼のうえでやっているので、「ゴロ」よりはいいかなぁと思うけど。

ここでの「ゴロ」は、正社員として会社で働くなどの社会経験が少なく、特に必要される「営業の実績」のない人が行っているタイプ。
こいつらの性質が、ホントに悪い。場の空気を読まないし、ゴリ押ししてくるし、都合よく曲解してくるし、人の話を理解できないし。

意味不明なゴリ押しをしてきたり、「それはやりたくないんだけども」というようなクライアントの意向を、無視もしくは勝手に曲解して推し進めたり。
まぁ、往々にしてトラブルになります。

てかさ、同人でカネ稼いでも、大した儲けになんかなるわけないし、社会的な実績にもならん。
あと間違って儲けてしまうと、もっと恐ろしくて、カネの恐ろしさに巻き込まれてしまう。

何よりも「ゴロ」なんで将来性がない。真面目に働いたほうが余程マシ。

何かやりたいという気持ちは理解するけど、正直オススメできない。
まさに「その場しのぎ」なだけであって、自分の評判落とすリスクを踏んで、この業界に関われなくなるぐらいなら正直、 や め た ほ う が い い 。

健全なサービスを目指すという事

  • 非出会い系:児童被害の7サイトを健全認定 監視機構(毎日新聞

まぁ、EMA の発言はインタビューの一端に過ぎないとは思うので、これだけで判断するのは難しいが、記事の内容だけでは「コンテンツを提供する会社は悪くなくて、利用者が悪い。」という考え方もできてしまう。で、そんな道理のままでいいのか?

コンテンツを提供・運営する会社は、コンテンツ上で行われるコミュニケーションの健全性は常に監視すべきであり、それがコミュニティの健全性を維持するきっかけともなると思う。

確かに、コストのかかる分野ではあるが、健全性やコミュニケーションの品質を損なう行為を見過ごすということは、牽いてはサービスの品質を落とす結果にもなりかねない。
ユーザの多様さは必要だとは思うが、リアル社会における秩序が及ばない事が多いネット上では、それに携わる者、特に生業としている者の責務はあると思う。
そもそも、コミュニティを作って「あとの自治は自分達でやってね」なんて方法で、品質の良いサービスを提供・維持できるとは思えない。それはリアルな社会において、その歴史が証明済(イラクとかイスラエルとか)。

たとえば、違反報告をユーザに求め、それを監視システム、利用者と運営者が強調したシステムにするというのは、それほど敷居の高い行為ではないと思うが。

ちなみに、私もサービスを提供する立場にあるのだが、ネットサービスにおいて無秩序なものを情報として提供したいとはあまり思わない。コンテンツとして情報の品質は必要だと思うし、秩序も必要だと思う。
確かに発想の足枷になってしまうかも知れないし、さじ加減も難しいとは思うが、そこは運営者・利用者の議論を経れば、きっと乗り越えられると思うし、そこからサービス提供者の想定を超えるような新たな発想やビジネスチャンスが生まれるかもしれない。

どちらかというと、そっちのほうが物事が発展するうえでの、クリティカルパスだと思う。
逆にそこで新たな発想・発展が生まれなければ、そこまでのコンテンツだったという事になる。

そういう感じで、前向きに考えたいなぁ、と。

Twitter について

ブログより敷居の低いコミュニケーションツールとして使うのは、問題ありません。
コマーシャル的要素の高い内容についても、あまり頻繁に流すとウザいので、そこそこのつぶやき量にしましょう。
ただし、公式情報の類については、ブログに誘導するなりしてください。
問い合わせについては、FAQ なり、直接問い合わせるなり、誘導してください。

まぁ EMA の発言はインタビューの一端に過ぎないとは思うので、これだけで判断するのは難しいけど、記事の内容だけでは「コンテンツを提供する会社は悪くなくて、利用者が悪い。」という考え方もできてしまう。

そんな道理のままでいいのか?

コンテンツを提供・運営する会社は、コンテンツ上で行われるコミュニケーションの健全性は常に監視すべきであり、それがコミュニティの健全性を維持するきっかけともなると思う。
確かに、コストのかかる分野ではあるし、インターネットにおける発言できる内容についての議論もあるとは思うが、サービスを提供し維持していく上で、健全性やコミュニケーションの品質を損なう行為を見過ごすということは、牽いてはサービスの品質を落とす結果にもなりかねない。

ユーザの多様さは必要だとは思うが、リアル社会における秩序が及ばない事が多いネット上では、それに携わるも者全員に責任が生じると思う。
そもそも、コミュニティを作って「あとの自治は自分達でやってね」なんてサービスで、品質の良い情報を提供・維持できるとは思えない。それはリアルな社会において、その歴史が証明済。
たとえば、違反報告をユーザに求め、それを監視システム、利用者と運営者で協調運用できるようなシステムに構築するというのは、それほど敷居の高い行為ではないと思うが。

ちなみに、私もどちらかというとサービスを提供する立場の人間だが、ネットサービスにおいて無秩序な状態で提供したいとはあまり思わない。コンテンツとして情報の品質は必要だと思うし、そのためにはルール・秩序も必要だと思う。

確かに発想の足枷になってしまうかも知れないが、そこからサービス提供者の想定を超える発想が生まれるかもしれない。
どちらかというと、そっちのほうが物事が発展するうえでの、クリティカルパスだと思うし、逆にそこで新たな発想・発展が生まれなければ、そこまでのコンテンツだったという事になる。

私はそう思う。

興南、優勝しましたねぇ。

  • 興南、春夏連覇 県勢初の夏頂点 東海大相模に13-1(琉球新報

沖縄は縁あって、今や我が心の古里。
本来の地元である三重が早々に敗退したので、ずっと沖縄興南を応援してました。

そして、こんなに夏の甲子園をテレビで観るのも、そしてはじめから応援していた高校がそうのまま優勝するのも、私自身、初めての体験でした。

そして「深紅の大優勝旗」が初めて沖縄に渡ります。沖縄には復帰後「大臣が先か、甲子園(優勝)が先か」という言葉があり、県民にずっと待望されてました。
そして今年の春夏の連覇によって、沖縄の底力が見事に証明されたことは、大変喜ばしいかぎり。
優勝が決まったとき応援席の「万歳」を見たとき、私も本当に嬉しかった。

しかも沖縄は今、お盆の季節。地元に帰郷されている人も多いと思います。一緒に祝杯を挙げていることでしょう。

そして興南の玄関には、当分の間、春夏の大優勝旗が誇らしく並んで飾られることでしょう。

本当に、沖縄県の皆さん、興南高校の皆さん、おめでとう。
いやぁ、めでたい、めでたい。

日本の政治

日本の政治は、いわゆる地元の名士とか政治屋といった、いわゆるインテリ層によって成り立ってきた。これは大昔、武士や貴族が政治を行ってきた時代から、何にも変わっちゃあいない。
今の日本は、戦後の大混乱があって、そこから立ち上がって、世界有数の先進国となった。でもそれは政治家の力ではなく、国民が献身的に心血を注いで努力した結果だからこそであると思う。

まぁ国を営むうえで、政治や官僚が不要とは思わない。国を運営するためには、指導力や能力が必要で、それには政治や官僚は不可欠だと思う。
でも今の日本の国家を指導・企画する立場であるべき政治家や官僚は、国民の要望という影に隠れ、または誇張し、小手先だけの施策だけを行う。その結果、今の日本の財政赤字は破綻寸前。彼らの所為で、今に日本はボロボロ。こんな事では国民は国に対して敬意を払うこともできないし、何よりも納税意欲は持てない。

今の経済社会において、政治の指導力は果たして必要なのだろうか? 彼らの果たすべき義務は国力を挙げるための施策と、赤字を減らすための努力。
そのために国民が心血を注ぐだけの努力が欲しいのであれば、まず「職業政治家」をぜひ廃していただきたい。今の彼らの政治手腕は、一流企業の経営者の手腕にも劣ると思う。
政治という社会の中で結局うま~くうま~く立ち回っているだけだけであり、私からしてみると、滑稽に見える。

ちなみにヨーロッパ、特にスウェーデンをはじめとする北欧圏では、政治家を国民が監査するシステムがあり、国民が政治とは別の手段で国家運営を関係している。
確かに日本も国民が政治に参加するため参政権はあるのだけれども、政治手腕とは別の方向性で国の政治に参加できるようなシステムがあってもいいような気がする。司法における裁判員制度で、国民が密接に関わることになったのだから、それを見習って、国家運営に対して国民が監査できるようなシステムが必要かと。欧米型の政治システムは、今となっては古くて無駄が多い。

とはいえ、そんな事が話せる時代は、この先 50 年はないかなぁ。国家が破綻するのが先かもねぇ(憂

英語の必要性

まぁ、社長の意地といいますか、エゴといいますか。自分達が日本を変えられると思っているのかはわかりませんが。

でも、グローバル企業として英語をスキルに持つに越したことはないと思います。
英語がわかれば日本語に翻訳されてこない情報を取得することもできるし、メリットはデカい。

ただし日本において、コミュニケーションを英語に変えるというのには違和感を感じる。
どこかで聞いた話だが、英語が堪能な留学生を大量招致したどっかの大学が、英語を公用語にして授業をしたところ、先生よりも留学生のほうが英語が堪能で、結果授業が成り立たなくなってしまったという話を聞いた事がある。ヒエラルギーが変わってしまうリスクがあるらしい。

つまり「英語ができる人」が「仕事ができる人」よりも優位に立つということ。それが指し示す先には、とても危険な可能性を孕んでいる。
必ずしも今は「英語ができる人=仕事ができる人」ではないはず。

あともう一つは、日本人向けのサービスを展開しているのに、書類を英語で作成しなくてはならないというのには、違和感を感じる。
海外企業が日本で事業展開する場合、外国人でも日本語を理解する努力はするし、日本語の書類を用意する。

私も外資系企業の日本部門の仕事をする事はあるのだが、公式書類・グローバルで管理される書類は英語、国内で閉じた書類は日本語というように、適度な「棲み分け」を行っていた。
その辺りの柔軟さがグローバルビジネスを円滑に行う秘訣だとは思うのだが。

ただし、経営者や役職者、営業や商社マンは英語も喋れるほうがよいと思う。グローバルの事業を遂行・提携するうえで、英語が話せないというのは、やはりビジネスにおいて致命的。確かに通訳を入れてもビジネスはある程度成り立つが、日本人の得意とする「気配や雰囲気を察知して行動する」行為ができず、結果的にビジネスがモノにできないという事もある。
欧米系、特にアメリカ人は自分が中心だと(潜在的に? 遺伝子が?)思っているので、対等な水準でなければ、余程相手が興味を抱いていない以上、話にならない可能性が高い。

時期が何とも…ネタか?

  • 在日米軍、”萌え”でアピール 日米同盟の意義、漫画で(琉球新報
  • THE ALLIANCE MANGA WEB SITE(在日米軍

…ストライク・ウィッチーズとかの影響かな?

まぁ、広報としては正しい手法かとは思うけど、狡猾というかなんというか。
こうやって自国の行動や施策として武力を正当化していく手法は、ある種のプロパガンダを呼び起こすもである思う。

ヲタクの方々は、こういうのに「コロッ」とやられてしまう習性がありますし。

いずれにせよ、カッコイイとかカワイイというだけで、すべてを正当化してしまう、許してしまう世の中にだけはなりたくないなぁ。

携帯端末のデファクトスタンダードを見極める。

まだ今のところは、地球レベルでプラットフォーム競争を行っている状態なのかな。
昨今のテレビ買い替え需要なんかは、規格などのプラットフォーム部分については統一されているので、機能面での競争とに絞られている。
さらに国策もあって、購買意欲に繋がっており、実に面白い。

スマートフォンについても、この部分が統一されてくると、サービスやアプリケーションだけの競争となって、結果「ビジュアル面」という消費者の判りやすい場面での競争になるのではと思う。

ちなみにスマートフォンにおいては、私自身の突発的な購買意欲が、まったく出てこない。
それは、今はまだ Windows が発表されたときのような大きな衝撃を受けていないから。(って、当時は自分も若かったので、衝撃を受けやすかったのかもしれないが。)

確かにラッシュアワー時の満員電車内で、iPhone をいじっている人はよく見かける。
そして最近は iPhone 以外のスマートフォンも見かけるようになってきた。周りで持ち歩いている人が増えてきたのは確かに事実で、欲しいような気がしないわけでもない。

それに私自身、過去にシグマリオンやノーパソを持ち歩いた事はある。でも、結局お蔵入り。携帯のスケジュール帳も然り。その時に思ったのがこれ。

「活用の仕方がわからん。」「そして、遅い。」

まぁ営業系業種であれば、仕事においてもツールとして活用できたかも知れない。でも私にとっては所詮、通勤でしか遣わない代物。
スケジュールは薄手の手帳1つで事足りる。しかもモバイル立ち上げるよりも、手帳取り出すほうが早い。まぁ、便利ではなかったという事です。

ワンセグ・動画・音楽・ゲームをしながら、メールを打つ。スケジュール帳を整理する。あとは通信代が安いこと。
私の中では、これさえクリアできれば、買うのだが。。。
そして技術的にも、ハードル高いとは思えんのだが。

とにもかくにも、通勤時に持つアイテムを一つにはしたい。
「携帯と iPod と DS と手帳を持って、というのは何とかしたい」と思っている人は、きっと多いはず。

便利な世の中になったんだから、なんとかしてくださいよ。>ハードメーカーの皆さん。