アメリカのいじめ、歪な社会=現在(或いは将来)の日本

私が小中学生の際に住んでいた場所でも「いじめ」はありました。
田んぼに囲まれた集落で、両親は今もそこに住んでいますが、最近の社会変化のためか、近所の人は段々「知らない人」が増えてきたそうです。

そんな自分が小学生の頃、ある日、私が来年度から中学に進学するという数ヶ月前に事件は起きました。
進学予定先の中学生が自殺したのです。

原因が「いじめ」と結論付けられたのかは記憶が定かではありませんが、確かにその人は「いじめ」に遭っていました。

まぁ、当時の集落には、大半の子供が通っていた「そろばん塾」があったのですが、私が確か小4ぐらいの頃、その日は雪が積もったので、始まるまでの時間中に雪合戦をして遊んでいました。
そのとき、ある上級生達は、その自殺した子を集中して狙っていました。しかも雪玉の真ん中に小石を入れて投げ付けていたのを、今もはっきりと覚えています。

その数年後、彼は自殺しました。

私が進学する直前まで、その中学校はいわゆる「荒れた状態」にあったそうで、進学してからも、上級生にその「残り香」みたいなものを感じた事を覚えています。要するに不良みたいなのがいたんですよね。

そしてそんな私も、中学3年という時期にいじめに遭いかけました。
結局、教室内で大喧嘩して、余波は残ったものの、高卒によって何とか乗り切りました。

まぁ、自らも生意気なところがあったのでしょう。それが発端で彼らに隙を見せてしまったのが事の発端です。
当時の自分の横柄な性格にも原因があったのは事実と省みていますが、いじめの余波というのは、クラスの空気とかを微妙にしてしまい、それでかなり苦しい思いをしました。

そんな思いから逃げるために、高校は地元から少し離れた私立に進学しました。
ここでも自身に余波を受けていたのかも知れません、高校でも人間関係があまり上手くなかった事を記憶しています。
それなりに親しい友人はいたのですが、それ以外の人との交流が一切できなくなっていたのです。

そんな経験から、いじめの要素は何処にでもあります。人間というのは、対極にある人を受け入れたりできない、劣る人を攻撃対象としたりする生き物です。
劣等な物を救わない・虐げるというのは、生き物は総じてそんなものであり、そこから生物の進化があるのでしょう。
でも人間には「理性」というものがあって、それによりお互いが支えあい、進化・発展してきました。
そんな理性を否定する行為の発端が、「いじめ」にはあると思います。

「いじめ」そのものを失くすことは難しいかも知れませんが、理性を育むことはいくらでもできると思うんですよ。
親や教育現場・地域社会では、子供にはぜひその部分を「しっかりと」教えていって欲しい

記事の結論としても「法の裁きは最悪の解決策」とあります。まさにそうだと思います。
少年犯罪において、大人と同様の裁きを施す事は、それ即ち「この子には諭すことはできない」というレッテルを既に貼っていることになります。
まぁ、社会的にそのような風潮になっていくのであれば、それを受け入れていく事になるのかもしれませんが、そこに健全な社会があるとは思えません。

たとえ裁くのであれば、親や教育現場、地域社会も含めて、問題点、場合によっては責任を指摘し、社会に対して疑問点を裁判官自らが投げかけてほしいと思います。

あなたの子供、生徒、近所に住む子供は、この社会の中、強く育てていられていますか?
親として、先生として、地域市民として、子供を守りつつ、強く生きられるように育てていますか?
そして、親として、先生として、地域市民として、子供に正しい事を教えられていますか?


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