国葬を考える

どうも腑に落ちない。

安倍さんに恩義がある方々や、そもそも(安倍さんに関係なく、自民党や国家という感じのものに対して)信奉的な考えのかる方々、政治に関連する方々における独特の考え方や礼儀(?)思想や信念がある方々など、様々な人が「国葬」を容認されている方が非常に多く、そしてこれらが国葬推進におけるキーパーソンになっている関係上、押し込まれてしまった感しかしない。

もちろん、安倍さんが凶弾に倒れたことに対しては、憤怒すべき出来事ではあるが、国葬を以て弔う必要のある方なのかを問われると、正直疑問を感じる。

それをこんな曖昧な状況で認めてしまうことは、日本における(見てくれは与党における多党政治ではあるが、事実上の)一党独裁政治の象徴であると認識されても、間違いではない。

個人的には国葬として妥当なのは、天皇陛下が崩御された場合における「大喪の礼」(これは厳密には国葬ではない(別次元の何かであるそうだ)が、事実上の国葬かと)、政治家であれば現役の首相(国家元首)が凶弾で亡くなった場合に限るのではないかと思っている。

それぐらい、国葬というのは「重い」という位置づけであるべきではないかと。

正直なところ、現代の民主主義社会において「国葬」という考え方は、そもそも馴染まないと思っている。
理由としては、その故人そのものを「神格化」するような誤解を与えてしまうから。

立憲君主制であるならまだしも、「覇権主義」的な国家、独裁国家が好むような行為を、習熟された議論もせずに国事で行うのは、その根幹は「それら国々と何ら変わらない」という事を、自ら認めてしまっているのではないかと。

改めて言うが、これはあくまで安倍さんの話ではなくて、国葬というものが「どうよ」という話。
長年の課題であるに関わらず、十分な議論もないまま、時間に流されて国葬が行われてしまう社会・政治の流れに対しての批判。