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IT情報技術専門職の受験資格が凄い

  • 【総務課】平成23年度枝幸町職員(社会人)を募集(枝幸町)(閉鎖)

ついったーで話題になってたんで。
でも、必要な資格が…ちょ…これ全部って。。。

それぞれを見ると、個人的にはそんなにハードルが高い資格ではないと思う。でも筆記試験だけ取得できるものでなく、技能も問われる資格もあり、一朝一夕で取得できるものではない。
とはいえ、これだけの資格を揃えて持ってる人って、ほんと日本中に何人ぐらいいるんでしょうかね?
こんだけの資格を取得させてくれる会社が、あんまりないような気がします。資格オタでもこれはなぁ。

それに給料が新卒給基準で記載されてるんだけども、実質手取ってどれくらいになるんでしょうかね?
こんだけ資格あるのであれば、少なくとも月40万以上は貰えないと厳しいんじゃないかなぁ。

てか、職場で何させられるんだろ?
確かに外注出すのよりは、自前で職員がいて、その人に自前で設備工事をやってもらえれば、そのぶん人件費も調達の手間・コストは遥かに低いと思うが。
でも、さすがにいきなりこれ全部持っている人は早々いないと思うし、職場とのマッチングが上手くいかないような気もする。
普通はそこそこの資格者を採用して、追加で資格を取らせるとかのほうがよいと思うが。

募集要項そのものがやる気のないブラフなら、まぁそれはそれで。。。

まぁ、地方に引きこもりを画策している私としては、そこそこの資格は取得したいと思ってる。電気屋をやる気はあんまりないけど、資格はソフト・ハードの両方を持っていたいなぁ。

結局変えるのかぁ。

  • 新設「さくらんぼ小」校名変更へ 成人向けサイトと同名(朝日新聞)(記事削除)

まぁ、変更の理由は確かに納得できるけど、なんか切ないというかヤルセナイというか。

潜在的にアダルト向けな内容のコンテンツを好まない市民は実際多いわけで、この一連の出来事によってその方々の反感を買うのは事実。
それが鬱積して発散されることがないといいなぁと思う。

てか最近このあたりの業界は、首謀者はさておき賛同者が社会に対して挑発的な行動が目立つ。個人的にはある程度アンダーディープな世界であるのが、お互いのためだと思うのだが。

電子出版業界

  • 【電子書籍ウォーズ(上)】グーグルとアマゾンの攻勢(産経新聞)(記事削除)

そろそろ電子書籍業界の収益が、出版業界からしてみても無視できない領域に到達してきている。
日本では Sony をはじめとするグループが事業会社を立ち上げて独自規格を打ち出そうと躍起になっているが、やはり Google や Apple などの開発速度には応えられていない。
これはおそらく事業会社が出資各社の意向を聴きながら進めているためで、これまたなんとも日本的な文化が足枷になっているのではないかと思われる。
まぁ、こんなことしてればアメリカの開発力には絶対に勝てないわな。

電子出版業界の未来はそんなに開けていないと思っています。まぁ時代の流れに沿った既存の利権の食い合いのような気が。
そもそも出版物というのは、著作権をはじめとする権利が、普通の物品とはその敷居が大きく異なっている。無論、通常の品々にもこのような権利はあるのだが、出版物は比較的容易に複製ができてしまうため、その点において特段の配慮が必要で、その部分の開発においては技術力をはじめとする能力が必要。
しかも、そもそも作者・出版・印刷・流通などからして、非常に保守的な意識が高い面々が、権利・利権を持っており、そこから版権を確保できなければ意味がない。
そして今はすでに、どこがビジネスプラットホームにおいて天下を取るかの、戦国状態。
ちなみに、ビジネスプラットホームが奪取できれば、版元との利益配分が二束三文であっても、莫大な収益を上げることができるというのは、お分かりかと思う。

ちなみに電子書籍というのは、技術面において真新しい部分がほとんどないのも事実。確かにハードの進化に合わせての機能追加とセキュリティ面での進化はあるんだけれど、「見せるための技術」においては、それほどの進化はない。
だって、所詮媒体が紙から電子媒体に移っただけだし。

あとこれは持論なのだが、そもそもコンテンツ産業というのは、一種のマネーゲームと私は思っている。細かい話は抜きにするが、乱暴に言ってしまうと、コンテンツ産業で生まれた利益は、所詮、国力の維持には寄与しない。一次産業で得られる原材料も二次産業で得られる物としての生産物も得られない。コンテンツ産業に従事している人、特に営んでいる人の殆どは、自身が好きでやっているのであり、そこに賛同者が集まることで売買が成立し、経済が成り立っている。そう言った意味では、一次・二次産業に比べ国力の増強という面において社会に寄与しているとは言えない。
確かにコンテンツ産業は、人間社会において充実な生活を送るために「ある程度」は必要だと思う。でも限度を越えてしまうと、それは結局、人間本来の知的ポテンシャルを無駄な方向に消費させている、要するに能力の無駄遣いに繋がっていると、最近常々思う。
まぁ、もっと乱暴に言ってしまうと、地球規模の経済破綻が起きたとき、電子書籍が読めるのよりは、畑でできた食料を持っていたほうがよいということ。そう言った点で、私のコンテンツ産業としての魅力は、最近ちょっと低い。

まぁ人の人生なんて 80 年ぐらいしかないのだから、今の私が何を言っても仕方ないのですがー。

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健全なサービスを目指すという事

  • 非出会い系:児童被害の7サイトを健全認定 監視機構(毎日新聞

まぁ、EMA の発言はインタビューの一端に過ぎないとは思うので、これだけで判断するのは難しいが、記事の内容だけでは「コンテンツを提供する会社は悪くなくて、利用者が悪い。」という考え方もできてしまう。で、そんな道理のままでいいのか?

コンテンツを提供・運営する会社は、コンテンツ上で行われるコミュニケーションの健全性は常に監視すべきであり、それがコミュニティの健全性を維持するきっかけともなると思う。

確かに、コストのかかる分野ではあるが、健全性やコミュニケーションの品質を損なう行為を見過ごすということは、牽いてはサービスの品質を落とす結果にもなりかねない。
ユーザの多様さは必要だとは思うが、リアル社会における秩序が及ばない事が多いネット上では、それに携わる者、特に生業としている者の責務はあると思う。
そもそも、コミュニティを作って「あとの自治は自分達でやってね」なんて方法で、品質の良いサービスを提供・維持できるとは思えない。それはリアルな社会において、その歴史が証明済(イラクとかイスラエルとか)。

たとえば、違反報告をユーザに求め、それを監視システム、利用者と運営者が強調したシステムにするというのは、それほど敷居の高い行為ではないと思うが。

ちなみに、私もサービスを提供する立場にあるのだが、ネットサービスにおいて無秩序なものを情報として提供したいとはあまり思わない。コンテンツとして情報の品質は必要だと思うし、秩序も必要だと思う。
確かに発想の足枷になってしまうかも知れないし、さじ加減も難しいとは思うが、そこは運営者・利用者の議論を経れば、きっと乗り越えられると思うし、そこからサービス提供者の想定を超えるような新たな発想やビジネスチャンスが生まれるかもしれない。

どちらかというと、そっちのほうが物事が発展するうえでの、クリティカルパスだと思う。
逆にそこで新たな発想・発展が生まれなければ、そこまでのコンテンツだったという事になる。

そういう感じで、前向きに考えたいなぁ、と。

興南、優勝しましたねぇ。

  • 興南、春夏連覇 県勢初の夏頂点 東海大相模に13-1(琉球新報

沖縄は縁あって、今や我が心の古里。
本来の地元である三重が早々に敗退したので、ずっと沖縄興南を応援してました。

そして、こんなに夏の甲子園をテレビで観るのも、そしてはじめから応援していた高校がそうのまま優勝するのも、私自身、初めての体験でした。

そして「深紅の大優勝旗」が初めて沖縄に渡ります。沖縄には復帰後「大臣が先か、甲子園(優勝)が先か」という言葉があり、県民にずっと待望されてました。
そして今年の春夏の連覇によって、沖縄の底力が見事に証明されたことは、大変喜ばしいかぎり。
優勝が決まったとき応援席の「万歳」を見たとき、私も本当に嬉しかった。

しかも沖縄は今、お盆の季節。地元に帰郷されている人も多いと思います。一緒に祝杯を挙げていることでしょう。

そして興南の玄関には、当分の間、春夏の大優勝旗が誇らしく並んで飾られることでしょう。

本当に、沖縄県の皆さん、興南高校の皆さん、おめでとう。
いやぁ、めでたい、めでたい。

英語の必要性

まぁ、社長の意地といいますか、エゴといいますか。自分達が日本を変えられると思っているのかはわかりませんが。

でも、グローバル企業として英語をスキルに持つに越したことはないと思います。
英語がわかれば日本語に翻訳されてこない情報を取得することもできるし、メリットはデカい。

ただし日本において、コミュニケーションを英語に変えるというのには違和感を感じる。
どこかで聞いた話だが、英語が堪能な留学生を大量招致したどっかの大学が、英語を公用語にして授業をしたところ、先生よりも留学生のほうが英語が堪能で、結果授業が成り立たなくなってしまったという話を聞いた事がある。ヒエラルギーが変わってしまうリスクがあるらしい。

つまり「英語ができる人」が「仕事ができる人」よりも優位に立つということ。それが指し示す先には、とても危険な可能性を孕んでいる。
必ずしも今は「英語ができる人=仕事ができる人」ではないはず。

あともう一つは、日本人向けのサービスを展開しているのに、書類を英語で作成しなくてはならないというのには、違和感を感じる。
海外企業が日本で事業展開する場合、外国人でも日本語を理解する努力はするし、日本語の書類を用意する。

私も外資系企業の日本部門の仕事をする事はあるのだが、公式書類・グローバルで管理される書類は英語、国内で閉じた書類は日本語というように、適度な「棲み分け」を行っていた。
その辺りの柔軟さがグローバルビジネスを円滑に行う秘訣だとは思うのだが。

ただし、経営者や役職者、営業や商社マンは英語も喋れるほうがよいと思う。グローバルの事業を遂行・提携するうえで、英語が話せないというのは、やはりビジネスにおいて致命的。確かに通訳を入れてもビジネスはある程度成り立つが、日本人の得意とする「気配や雰囲気を察知して行動する」行為ができず、結果的にビジネスがモノにできないという事もある。
欧米系、特にアメリカ人は自分が中心だと(潜在的に? 遺伝子が?)思っているので、対等な水準でなければ、余程相手が興味を抱いていない以上、話にならない可能性が高い。

時期が何とも…ネタか?

  • 在日米軍、”萌え”でアピール 日米同盟の意義、漫画で(琉球新報
  • THE ALLIANCE MANGA WEB SITE(在日米軍

…ストライク・ウィッチーズとかの影響かな?

まぁ、広報としては正しい手法かとは思うけど、狡猾というかなんというか。
こうやって自国の行動や施策として武力を正当化していく手法は、ある種のプロパガンダを呼び起こすもである思う。

ヲタクの方々は、こういうのに「コロッ」とやられてしまう習性がありますし。

いずれにせよ、カッコイイとかカワイイというだけで、すべてを正当化してしまう、許してしまう世の中にだけはなりたくないなぁ。

携帯端末のデファクトスタンダードを見極める。

まだ今のところは、地球レベルでプラットフォーム競争を行っている状態なのかな。
昨今のテレビ買い替え需要なんかは、規格などのプラットフォーム部分については統一されているので、機能面での競争とに絞られている。
さらに国策もあって、購買意欲に繋がっており、実に面白い。

スマートフォンについても、この部分が統一されてくると、サービスやアプリケーションだけの競争となって、結果「ビジュアル面」という消費者の判りやすい場面での競争になるのではと思う。

ちなみにスマートフォンにおいては、私自身の突発的な購買意欲が、まったく出てこない。
それは、今はまだ Windows が発表されたときのような大きな衝撃を受けていないから。(って、当時は自分も若かったので、衝撃を受けやすかったのかもしれないが。)

確かにラッシュアワー時の満員電車内で、iPhone をいじっている人はよく見かける。
そして最近は iPhone 以外のスマートフォンも見かけるようになってきた。周りで持ち歩いている人が増えてきたのは確かに事実で、欲しいような気がしないわけでもない。

それに私自身、過去にシグマリオンやノーパソを持ち歩いた事はある。でも、結局お蔵入り。携帯のスケジュール帳も然り。その時に思ったのがこれ。

「活用の仕方がわからん。」「そして、遅い。」

まぁ営業系業種であれば、仕事においてもツールとして活用できたかも知れない。でも私にとっては所詮、通勤でしか遣わない代物。
スケジュールは薄手の手帳1つで事足りる。しかもモバイル立ち上げるよりも、手帳取り出すほうが早い。まぁ、便利ではなかったという事です。

ワンセグ・動画・音楽・ゲームをしながら、メールを打つ。スケジュール帳を整理する。あとは通信代が安いこと。
私の中では、これさえクリアできれば、買うのだが。。。
そして技術的にも、ハードル高いとは思えんのだが。

とにもかくにも、通勤時に持つアイテムを一つにはしたい。
「携帯と iPod と DS と手帳を持って、というのは何とかしたい」と思っている人は、きっと多いはず。

便利な世の中になったんだから、なんとかしてくださいよ。>ハードメーカーの皆さん。

子の不幸、親の不幸

  • 未成熟な親、相次ぐ虐待…10~20歳代が半数(読売新聞

10~20歳代が「半数」なのは確かに多いほうとは思うが、他の世代や、親子間の年齢分布を考えると、多いのは若干であるような気がします。

それはさておき「目立つ」というのは確かにそうであり、最近の親の行動を見聞きするに、とても正気の沙汰とは思えない事が多い。
うちも親の「躾け」は厳しいほうだったし、なにか悪戯をしでかして、夜に雨戸の外に放り出された事も記憶にある。でも、それは親自身の経験や知識から行っていることであったと、今では思う。
でも、最近の虐待はそれとはかなり異なる。親自身の生い立ちからして一人っ子であったり、そして便利なものもありふれた時代。幼稚園や学校・塾などの充実によって、家族の手間がかからない時代。人を育てる・育てられるということを学ばないで大人になった人も多いと思う。

また、精神・肉体な疲労だけではなく、経済的な面も含めて子育ての大変さを教えられていない。性的な欲求や楽観的な見通しの下で生まれてきた子のリスクは非常に高いと思う。

とはいえ、虐待がなくても今の親の子育ては明らかに変である。
普通に考えて、夜の11時も過ぎてからコンビニとかファミレスに子供連れてくるのはおかしいと思う。子供の成長やしつけの観点から、容認できる行為ではない。それぞれ事情があるとは思うが、結局は「大人の都合や意思」の問題。責任は親にある。
日々の「しつけ」として、夜は寝ることを子供には覚えさせる必要があるし、そして、親たる大人だけの時間を確保するという点でも必要なはず。
子供を自分のライフサイクルに合わせるのは、とても楽な生き方だとは思うが、それで果たして子供は真っ当な社会・将来を生きていけるとは思えない。

まぁ「聖人君子であるべき」とまでは言わないが、「子は親を見て育つ」という事をもっと知るべきだと思う。結局子供を駄目にするのは、親の責任である。

それに所詮、別のヒトサマの事ではあるので、私が何を言っても仕方のない話。
でも、私ならあんな育て方はしたくないと思う。