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暴力事象

大津市の中学2年生の自殺問題に端を発した一連のいじめ問題。
未だに収まる傾向は見えない。

この件については教育委員会は「暴力事象」として取り扱う旨を示しているようだが、単なる教育委員会の目眩ましに過ぎない。
実際に「いじめ」も「暴力事象」も、問題解決の糸口さえ見つかっていないのではないかと思う。

まぁ「いじめ」などの問題は、騒動を聞きつけた報道が世間に晒し、それに対して更に直接関係していない人も含めて、どんどん広がっていく傾向がある。
そうやって、本来は当事者や地域・教育機関などで解決すべき問題が肥大化してしまい、最終的に、彼らでは解決できなくなってしまう。

もう一つ大きな問題が「時間の問題」。いじめに関する問題が解決しないのには、実際の当事者が卒業してしまうこと。学校の教師も数年も経たないうちに、転任等でいなくなってしまう。こうやって「時間」が、問題を有耶無耶にしてしまう。

いずれにしても、暴力行為は、個人的には自制ができない人が行う、卑しき行為と思います。
暴力を振いたいという衝動は、生物である以上、ある程度は致し方無いとは思うのですが、それ以前に、我々は人間という自制心、思いやりの心、理性を持った生き物であります。
それが出来ないというのは、やはり人間としての資質に欠けると思うのです。
ましてや 暴力行為で、自らのストレスを発散するとか、満足を得るなんてのは、劣る行為だと思っています。

そして社会はそんなに甘くはない。今のご時世、どこからでも情報は流れていく。
暴力行為を行うような人間は社会から最終的には拒絶される。その先には非道の人生しか用意されていない。
路上で野垂れ死ぬしかないような惨めな人生に、自らを追い込むべきではない。
実感はないかも知れないけれど、実際のところ、それが現代社会の厳しさとして存在する。
よく考えてほしい。

とはいえ、私も立派な人間ではないので、あまり過ぎた事は言えませんが。

いずれにしても、このような現象は、保護者や学校、そして社会がこのような事態を招いた事だと思っています。
当然それぞれに「果たすべき責任」があったと思います。
しかもその「果たすべき責任の重さ」はそれぞれ違うはずであり、そしてそれぞれで「果たされなかった責任」に対して、対価を支払うべきと思っています。

「いじめ」は昔から確かにあります。でもいじめそのものの定義が曖昧です。どこからが「いじめ」でどこまでが「いじめじゃない」のか、「暴力事象」なのか、決まってはいません。
そして、そのような問題に対し、クラスで、保護者間で 、教育機関で、地域社会で話されていない事が、何となくタブー視されていることが、最終的に問題や事件に発展しているのではないのでしょうか。

いじめ問題は予防できる、防ぐことができる問題 です。
でも人間である以上、暴力行為やいじめ問題は、必ず発生する問題であることを認識すべきであり、問題に発展しないようなするために、人としての教育や躾が必要なのではと思いあます。

アメリカのいじめ、歪な社会=現在(或いは将来)の日本

私が小中学生の際に住んでいた場所でも「いじめ」はありました。
田んぼに囲まれた集落で、両親は今もそこに住んでいますが、最近の社会変化のためか、近所の人は段々「知らない人」が増えてきたそうです。

そんな自分が小学生の頃、ある日、私が来年度から中学に進学するという数ヶ月前に事件は起きました。
進学予定先の中学生が自殺したのです。

原因が「いじめ」と結論付けられたのかは記憶が定かではありませんが、確かにその人は「いじめ」に遭っていました。

まぁ、当時の集落には、大半の子供が通っていた「そろばん塾」があったのですが、私が確か小4ぐらいの頃、その日は雪が積もったので、始まるまでの時間中に雪合戦をして遊んでいました。
そのとき、ある上級生達は、その自殺した子を集中して狙っていました。しかも雪玉の真ん中に小石を入れて投げ付けていたのを、今もはっきりと覚えています。

その数年後、彼は自殺しました。

私が進学する直前まで、その中学校はいわゆる「荒れた状態」にあったそうで、進学してからも、上級生にその「残り香」みたいなものを感じた事を覚えています。要するに不良みたいなのがいたんですよね。

そしてそんな私も、中学3年という時期にいじめに遭いかけました。
結局、教室内で大喧嘩して、余波は残ったものの、高卒によって何とか乗り切りました。

まぁ、自らも生意気なところがあったのでしょう。それが発端で彼らに隙を見せてしまったのが事の発端です。
当時の自分の横柄な性格にも原因があったのは事実と省みていますが、いじめの余波というのは、クラスの空気とかを微妙にしてしまい、それでかなり苦しい思いをしました。

そんな思いから逃げるために、高校は地元から少し離れた私立に進学しました。
ここでも自身に余波を受けていたのかも知れません、高校でも人間関係があまり上手くなかった事を記憶しています。
それなりに親しい友人はいたのですが、それ以外の人との交流が一切できなくなっていたのです。

そんな経験から、いじめの要素は何処にでもあります。人間というのは、対極にある人を受け入れたりできない、劣る人を攻撃対象としたりする生き物です。
劣等な物を救わない・虐げるというのは、生き物は総じてそんなものであり、そこから生物の進化があるのでしょう。
でも人間には「理性」というものがあって、それによりお互いが支えあい、進化・発展してきました。
そんな理性を否定する行為の発端が、「いじめ」にはあると思います。

「いじめ」そのものを失くすことは難しいかも知れませんが、理性を育むことはいくらでもできると思うんですよ。
親や教育現場・地域社会では、子供にはぜひその部分を「しっかりと」教えていって欲しい

記事の結論としても「法の裁きは最悪の解決策」とあります。まさにそうだと思います。
少年犯罪において、大人と同様の裁きを施す事は、それ即ち「この子には諭すことはできない」というレッテルを既に貼っていることになります。
まぁ、社会的にそのような風潮になっていくのであれば、それを受け入れていく事になるのかもしれませんが、そこに健全な社会があるとは思えません。

たとえ裁くのであれば、親や教育現場、地域社会も含めて、問題点、場合によっては責任を指摘し、社会に対して疑問点を裁判官自らが投げかけてほしいと思います。

あなたの子供、生徒、近所に住む子供は、この社会の中、強く育てていられていますか?
親として、先生として、地域市民として、子供を守りつつ、強く生きられるように育てていますか?
そして、親として、先生として、地域市民として、子供に正しい事を教えられていますか?

こういう事が起きる度に思うんだよなぁ。

  • 群馬・小6自殺:願いは「学校消す」学級崩壊、孤立深め(毎日新聞)(記事削除)

まぁ、経験則とか思考の推論・整理とかからだけなので、別に証明できるわけではありませんが。

学級崩壊がいじめを助長するというのは、因果性はあると思う。
で、学級崩壊の発生メカニズムは必ずあるはず。それを解明し、それを引き止める方策も必ずあるはず。
確かに発生メカニズムそのものは多種多様かも知れない。でも個人的には要因となる事象が必ずあって、いくつかの類型にまとめられると思っている。
それを得意とする分野の有識者も絶対この世の中にいるはず。

まぁ、児童ポルノの問題も重要かも知れないけど、自分たちの子供の社会そのものが確実に「多様化という時代の流れ」で破綻しつつある。
その原因が、学校・保護者・PTA・地域自治・それを司る教育組織にあるという事、彼らがその時流に全然追いついていないという事が、本当に分かっていない。
てか、認めたくないんだろうね。「自分たちは正しい」と思っている、その納得できる根拠を教えてほしいよ。

日本人はどんどんバカと利口の二極化が進むのではないかと、そんな悲観。

こんな学校社会も教育者達も腐ってる

  • 山形女子高生自殺:遺族が遺書公表 いじめ再調査を要請(毎日新聞

このような自殺事件の多くで「いじめはなかった」とされる学校や教育委員会の報告があるが、彼らは何をもって「いじめ」としているのかが、甚だ疑問に落ちる事がよくある。

まぁ、物事や知識を教えるという面では、日本の教育は優れているのかも知れないが、生徒の心や精神を養う・育む場としては、日本の学校の殆どは及第点に届いていないと思う。

もちろん、その原因には子供の社会の変化や地域性なども多分にあると思うが、それを察知できない先生や親・大人の社会、それを結果的な察知できない・関知できないようになっている教育システム・組織となってしまっているのが、最も腐っている部分だ思う。

それに「遺書は根拠の見えないもの」とした校長のコメントも、明らかにおかしい。彼らからしてみれば、自殺した一人の生徒よりも生きている生徒のほうが大事なのかもしれないと勘ぐってしまう。
でもまぁそうじゃないでしょ、両方を大切にすべきであって、そのためには生徒も遺族も同じバランスで捉えなくてはならないはず。
そんな中で、この校長のコメントはあまりにも遺族への配慮が足らないコメントであると私は思う。まぁ、校長のコメントなのか、背後にいる教育委員会のコメントなのかは、よくわからないけど。

  • 「文部科学大臣からのお願い」について(文部科学省

…なんだか「変な社会になったなぁ」と思う今日この頃。

こんなアピールを大臣が出すような社会が、マトモとは思えません。
学校・家庭・地域において保護する立場や躾をする立場の大人は、いったい何をしているのでしょうか?

これは「ゆとり」ばかりを説いてきたことによる弊害だと思います。
「ゆとり」の意味や効果を誤解し続けてきたツケだと思います。「ゆとり」とは、間接的な効果で目的を達成すべきなのであって、直接的な施策で目標達成することはほとんどできません。

今、説くべき事なのは「思いやり」ではないかと。

自分がいじめられたら、どんな思いをするか。

自分が自殺したら、親や周囲の者がどんな思いをするか。

そこからだけでも導くことはできるはずです。

こんなのは昔からあった、ただ単に戦後日本の人口増加や情報円滑化によって、我々の耳に入るようになっただけなのかも知れません。でも、世間が知り得てしまった以上、何らかの対策を取るべきです。いえ、少なくとも自分自身だけであっても考えるべきです。

皆さんは、いじめられている人や悩んでいる人の「思い」を受け止められますか?